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親と子の栄冠ドラマ -中学入試体験記-

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鴎友学園校門までの紆余曲折

  • 年度:2024
  • 性別:女子
  • 執筆者:本人
住宅街を抜けると、そこは鴎友学園女子中学校であった。私はこの学校へ進学するために、合格証をもらいにきたのだ。それまでには紆余曲折あった。私は今からその紆余曲折の内容について語る。

私は6年生9月時点では女子学院中学校を目指していた。直近のテストでの偏差値も70近く、余裕ぶっこいていたと言っても過言ではなかった。しかし私が夏のままのペースでいる中、周りのJG志望生達は勿論ピッチをあげてゆき、私はあっと言う間に追い抜かれた。日特ではクラス落ちこそしなかったものの席は1列目から3列目、4列目へとどんどん後ろになった。偏差値も60程へ下落した。その上学校に行くのが苦になり始めたが、JGでは休んだ日数を申告する制度があり、かなり休みにくかった。
そこで11月、日特を第二志望であった鴎友学園の日特へ変更することになった。かなりギリギリのタイミングだったので不安はあったが、このまま続けるよりはましだと思った。そして入った日特では上位クラスだったものの鴎友の入試問題は癖が強く、得意教科の国語でも調子によってかなりの落差があった。

しかしまだあると思っていた入試までの日数は無慈悲に減ってゆき、まだ合格者最低点を1度もとれぬままに栄東中学校入試の日になった。私は模試の結果からして栄東には受かるとばかり思っていた。しかし手応えは過去最悪であり、それは裏切られる事なく栄東には落ちた。合格確実だった栄東に落ちたのだ。ショックだった。泣いた。しかし泣いたためか合格発表の翌日にあった淑徳与野中学校入試への闘志が湧いた。淑徳与野は問題傾向を変えると公言していたため対策0であり、そこは些か心もとなかったが不安を何とか振り切って入試に臨んだ。手応えは良かった。そして結果が出ないまま14日の浦和明の星女子中学校に臨み、帰って結果が出たので恐る恐る見てみると合格だった。やはりか、とも思ったがそれ以上に嬉しかった。そして明の星の結果も出た。受かっていた。歓喜した。

そしてもっと闘いたいと考えた私は豊島岡女子学園中学校の受験を決意した。挑戦せずに終えるのは嫌だと思った。2月1日はすぐに来た。私は鴎友を受けに来た。何となく出来る気がした。しかしその予感はあえなく打ち砕かれた。栄東以上に手応えが悪かった。落ちる、と確信した。しかしめげる暇もなく2月2日、豊島岡入試が始まって終わった。べらぼうに難しかった。しかし心のどこかで希望もあった。が、それはその日のうちに絶望となった。どちらも落ちていたのだ。分かってはいたがかなりこたえた。だが散々入試に臨んできた私はそこで落ち込むこともいまここでは出来ないと知っていた。

豊島岡を最後まで受け切ろう、あとの2回にすべてを懸けよう。そう思った。しかしそれは幻想となった。豊島岡の2回目の出願は既に締め切っていたのだ。親の過失であった。そこで私は鴎友の第2回を3日に、豊島岡の第3回を4日に受ける事が決まった。

すっかり覚悟を決めていた私は畜生と思ったが思ったところでどうにもならない。2月3日、私は鴎友の入試に再び臨んだ。1日に触れなかった市川源三像の鼻にも触った。(触ると受かるというジンクスがある)。4日はすぐ到来し、不本意ながらも豊島岡最終戦に挑んだ。そして結果はやはりあっけなくついた。豊島岡には落ちた。しかし鴎友には合格したのだった。私は明の星に受かった時以上に喜んだ。豊島岡に関しては悔いは勿論あったものの鴎友の合格がそれ以上に嬉しかった。怪我の功名の典型例だと思った。

そうして私の中学受験は終了し、鴎友学園への進学が決定した。明の星をどうするかは迷ったがわざわざ日特に通った鴎友の方が良いと思ったのだ。そして冒頭に至る。私の体験記はどうだっただろうか。面白かった、ためになった、勇気がでたなどと思って頂ければ本望だ。果たしてどうなのかはわからないが。
今後も寄せられたドラマを、各カテゴリーに随時アップしていきます。
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