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親と子の栄冠ドラマ -中学入試体験記-

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つらかった1月を乗り越えて

  • 年度:2024
  • 性別:男子
  • 執筆者:
1月の埼玉入試での3連敗。想像以上につらい経験でした。

12月にあった2回の日能研全国公開模試では、どちらも、第一志望校にはまだ届かないものの、第二志望校のR4偏差値以上をとれていました。苦手の社会を除いた3科目では第一志望にも届きそうで、年末年始は、勉強で忙しかったものの、比較的明るい気分で親子とも過ごしていました。埼玉入試の初日、1/10の朝も、明るく会話しながら、受験会場に向かったように記憶しています。

埼玉入試2日目、1/11は初日とは別の学校を受験し、その待機時間中に前日の合格発表を確認しました。前日の受験終了後に「あまりよくできなかった」との本人からの話は聞いていたものの、こちらの学校は、調子の悪かった時の模試の偏差値でもR4偏差値は超えていたため、「開示される点数が予想よりも悪いのかな」、くらいの気持ちでしたが、結果はまさかの不合格。

本人に不合格をどう伝えようかと悩みましたが、受験終了後に合流して、本日の試験の出来を聞くと、「昨日よりはできた」と自信をもって言うので、こちらの学校の方が、志望順位が高いこともあり、親は「まあ昨日失敗して今日うまくいったならよしとしよう」と気持ちを切り替えられました。その後、本人に結果を伝えたときはかなり落ち込んではいましたが、そのまますぐに塾に行き、先生たちといろいろお話をしたようで、塾が終わると元気に帰宅しました。

その翌日、本人は学校に登校し、親が自宅で前日の合格発表を確認しました。「こちらが受かっていれば、前日の不合格は笑い話になる」と期待しながらの確認でしたが、またもや、不合格。しかも、開示された得点も予想よりだいぶ低い得点でした。

学校から帰宅した本人に不合格を伝えると、前日の時よりもショックは大きかったようで、涙ぐんでいました。「この学校はもう1回チャンスがあるからがんばろう」と声をかけ、本人もその週末、がんばって対策をしていました。

埼玉入試3回目は1/16。本人は受験会場で友達を見つけ、うれしそうに会場に入っていきました。終了後合流すると、「薩摩の摩を馬にしちゃった!」と、さっそく失敗談。「球磨川も漢字を間違えた」とも。その翌日の合格発表では、合格最低点に4点足りなくて、不合格。「この漢字が両方書けていれば合格だったね」と悔しい結果となりました。

その後、1/20の千葉入試で初めての合格をもらいました。合格証書をもらうとうれしそうにしていましたが、1月中、R4偏差値表を見てはため息をついている姿を何度もみました。合格を一つもらったものの、埼玉の3連敗のショックから完全には立ち直れていない様子でした。

そうして迎えた2月。

親子とも、心のどこかでまた埼玉の時のようなことが起きるのではないかと心配していたのだと思います。2/1の第二志望校の受験終了後、得意の理科が「時間が足りなくて、終わらなかった」という本人の話に、「もしも今日ダメだったら、明日からの受験は頑張れるだろうか?」と不安になりました。

そして、その当日夜8時の合格発表。「いっしょに見る?」と聞くと、「お母さんが見て」と。やはり不安な様子です。ドキドキしながら、合格発表のページを開くと
「おめでとうございます」
の文字が。つい、「合格!」と叫んでしまいました。本人も「やった!良かった。日能研で3年間勉強してきて良かった!」と本当に喜んでいました。
(そのあと、2/3の第一志望校は残念ながら不合格でした。)

第一志望校と、第二志望校(ともに東京)は本人が行きたいと思い、受験を決めた学校です。第三志望以下は親が中心になって決めた学校で、本人にはあまり思い入れはなかったはずです。それでも、不合格という結果は本当に重く、つらい経験になるのだな、改めて思いました。

2/1の合格のおかげで、笑って話せるようになりましたが、もし、ここでも不合格だったら、2/2以降頑張れたかどうか分かりません。

日能研での3年間、いろいろな思い出がありますが、最後のこの1か月間こそ、本当に大変で、そしてわが子が大きく成長した日々だった、と思っています。
今後も寄せられたドラマを、各カテゴリーに随時アップしていきます。
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