私は、5年生の時から新幹線で日能研に通っていました。
6年生の春までは、家が遠いこともあり、埼玉県の学校である栄東中学校を第一志望にしていました。
しかし、6年生の春に渋谷教育学園渋谷中学校(渋渋)と出会いました。
「すっげえ!漫画研究部あるじゃん!!」
「しぶしぶって響き好き!」
「渋谷行ってみたい!」(当時の私の反応)
というような軽いノリで、当時の偏差値ではとても届かなかった渋渋に恋をし、
「せっかくなら受けたい!」と目指すことになりました。今思えば、当時の私の持ち偏差を知っていても渋渋受験を応援してくれた両親に感謝ですね。
その時期から勉強にやる気を感じるようになりました。高い目標に向かって本格的に勉強をし始め、偏差値も少しずつ上がっていきました。やる気って大事だな、と今更ながら思います。9月には文化祭にも訪れ、漫研の展示を見て、出し物を楽しんで、生徒さんたちの活気を目の当たりにして、「行きたい」という気持ちは一層強くなりました。
(勉強。算数をめちゃめちゃ頑張る。)
1月受験もなんとなく予想通りに終わり、遂に迎えた2月1日(早い)。自分でも意外な程に落ち着いた気持ちで渋渋の試験に臨みました。1日目には手ごたえを感じており、しかも明日の2日目を受け終わるまで今日の結果が発表されないため、安定した精神状態(?)で1日目と2日目の試験を終えました。
荒れ始めたのは1日の結果が出てから。
発表サイトで数字がずらりと並ぶ中、あっけなく飛ばされた自分の受験番号。
漫画だったら ガーン じゃなくて チーン ですね。あの時の静かなる敗北感に対するショッキングな気持ちは相当、記憶に残ります。大泣きはしなかったけれど、涙がぽろぽろ出ました。
2日目も、3日目の豊島岡女子学園中学校も残念。1月校をふくめると5回連続での不合格でした。
4日目の豊島岡、5日目の渋渋を受けることになりました。
受けたい、悔しい、でも怖い。本当は自分に実力が無かったのではないか。
そんな気持ちに蝕ばれ、いやほんと、人生でぶっちぎりで辛かったです。
そんな中、クラス担任の先生に励ましの言葉を頂きました。気持ちが辛すぎてなんて言われたか実はよく覚えていないけれど、ものすごく元気を頂いたことは覚えています。
そうして迎えた4日目。両親は私の気分を変える為に色々考えてくれたのですが、あの時の気持ちの沈みっぷりというか、生気のなさというか・・・やばかったです(やばい?)。
4日目が終わった後も、理社に自信がなく、2月全落ちしたらどうしようとしか考えられなくなっていました。合格発表を見る気にはとてもなれませんでした。
その日の夜。
「豊島、合格だよ!」
先に発表を見ていた両親からこんな声がかかりました。
うれしさと安堵で、体の力がへなへなと抜けました。その後、5分位跳ね回っていました。
担任の先生からも、
「6年間、渋谷駅で降りるか、池袋駅で降りるかのどっちかでしょ。明日、楽しんでおいで!」
と言われました。
豊島岡の合格には、本当に救われました。
そして迎えた、渋渋3回目の2月5日。気持ちは元通りになっていました。
正真正銘最後の中学受験。実力を出し切れれば、もはやそれで良い気がしていました。
(豊島岡、鳩可愛いし。学食美味しいし。)
そんな感じで、私の2年間を全てぶつけてきました。
2月6日。私が学校から帰ってきたら、結果はすでに出ていました。
「自分で見てね。」という母の表情からは、結果は読み取れませんでした。母は、私が結果を見るときは大体ポーカーフェイスでいてくれました。
恐る恐る携帯を受け取り、自分を落ち着かせてからサイトを開きました。
いつか見た数字の羅列がパッと表示されました。
「え」
あった。ありました。しかもなんか特待ってかいてある。
「......合格?特待合格?え、え?」
すぐに背後にいた母から「おめでとう!」と言われました。
驚きと、達成感と、この上ないうれしさが私の中でごちゃ混ぜになっていました。
その日の残りはぽやっと浮き立つような気持ちでいました。
それで私の中学受験は幕を閉じました。
私から皆さんに言いたいのは一つだけです。
泣けてくるような、おかしいだろうがよって言ってやりたくなる結果はあると思います(ない人は本当にすごい、尊敬します)。
それでも、受けると決めた学校は絶対絶対絶対最後まで受けてください。
死ぬほど辛いと思いますが、最後にいいことあるかもしれませんよ?
長々とありがとうございました。頑張ってください!応援しています!!
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