子どもたちの空は高い。
子どもたちの未来は果てなく、遥か。
いまの大人が、想像するより、ずっと。

  1. 学びの真ん中に、子どもたちがいる時間。
    [日能研が考える子どもたちの学び観]
  2. やってみよう、使ってみよう。
    [日能研が考える「体験的に学ぶ」ということ]
  3. 大切なことは、自分自身になること。
    [日能研の考える子どもの成長]
 

学びの真ん中に、子どもたちがいる時間。
[日能研が考える子どもたちの学び観]

多くの動物の赤ちゃんは、
生まれてすぐに親と同じ個体としての動きができるようになります。
仔馬の出産シーンをテレビで観たことがありますか?
まだ濡れたカラダで立ち上がり、
よちよちと歩き出すところは生命のチカラ、不思議を感じずにいられません。

人間はどうでしょう。
親と同じようになるまで、いったいどれくらいの時間が必要なんでしょう。

人間は生理的早産、といったのはスイスの動物学者アドルフ・ポルトマンです。
「人間は本来の出産時期よりも早く、非常に未熟な状態で産まれ、
最低限の運動機能を獲得するまでにどんなに早くても1年間は必要」という説です。
そして、この説は次のように続きます。
「文明社会や経済活動において自立するには約20年必要」。

では、この長い時間の中で
子どもたちはどんなふうに学び、育ち、変化していくのでしょうか。

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大きく3つの年代にわけて考えてみます。

生まれてから8歳くらいまで。
このあたりまでの子どもたちは、
本当に大人がびっくり仰天するような言葉を聞かせてくれます。

さまざまな雑誌や本、新聞で紹介された
子どものつぶやきを、新鮮な大人の驚きとして紹介しているので、
ご覧になられたことも少なくないでしょう。

このころの子どもたちは、天才的、創造的、クリエイティブでイマジネーションが豊か。
不思議な自分だけのワールドにいて、
きのうも、きょうも、あしたも差がないように感じられます。
自分のことが相手に理解されるかどうか、
実のところ彼らにとってそれは、あまり大きな問題ではありません。
同様に自分が相手のことを理解するかも問題じゃない。
「自分の思ったことを、思ったようにどうやってできるか」
それこそが最大の興味なのです。
このとき、学びもとてもわがままに成り立ちます。
自分がわかるものをわかるだけ、わかりたいように学んでいく。
たくさんの情報がインプットされ、外からの影響も受けるけれど、
結局は子ども自身の内側の力で学んでいる。
だからこの時期は子どもたちにとって
独自性を育てる、膨らませるという意味で
とても特別な学びということができます。

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少し飛んで12歳、13歳以降はどうでしょう。

体が成熟しはじめます。
「いまは学ぶときなんだよ」といわれていても、
素直に学ぶことだけを中心に生活できなくなってくる。
第二次性徴が始まり、さまざまな"邪魔者"が子どもたちをノックします。
思春期に差しかかるとその傾向には拍車がかかり、
悩みを抱えながら、学ぶことのアイデンティティを見失いそうになったりもします。
「学んで何の意味があるの?」
なんて青春の王道のような疑問を口にするのは遠からずこの時期です。

では9歳から12、13歳くらいの時期の子どもたちは?

わがままなまでの自分を真ん中において学ぶ9歳前と
思春期を迎えて戸惑い、揺れながら学ぶ12、13歳以降との真ん中。

子どもたちは自分が自分一人だけのために生きていればいいという時期から、
人とともにいるんだということに目がむく時期に変化していきます。

ともにある、ともにいる。

自分以外のものが存在することに気づき、
“コミュニケーション”という言葉が必要になってきます。

そんな時期ですから、子ども自身も大きな変化をしていかなければなりません。

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私達はそれを“9歳の壁を乗り越える時期”と呼んでいます。
「壁」といっても、子どもたちの目の前に、イキナリ、さあどうだ、越えろ!
そんなふうに立ちはだかる壁ではありません。
子どもたちの目の前に現れるのは、
困ったなあ・・・とか、どうしよう?とか、
あれ?という漠然とした違和感だったり、
わかり合えないことのもどかしさ、
自分がわからないことのもどかしさだったり。
壁としてのカタチや認識は、そのとき当事者である子どもにはないでしょう。
この「壁」に出くわすたび、子どもたちは自分ではない他者の存在に気づき、
そして多くの子どもたちがその存在とのつながりを言葉によってつくっていきます。
(多くの子どもたちは、そのための言葉を使う力を算数、数学を通じて論理性として学びます)

そしてこの時期を通り過ぎてふと後ろを見ると、
昔の自分と比べて、変化した自分を感じるかもしれません。
そっか、これを乗り越えてきたんだ。
その壁の向こう側にいた昔の自分を少し幼く思える、
そんな時期です。

さて、コミュニケーションの意識に目覚めたばかりの子どもたちは、
大人の影響力を発揮できる時期と言えます。

ならば、この時期の学びは大人が中心になって、
大人ならではの計画をつくり、大人の力を使って・・・
って、そんな学びをつくるべきなのでしょうか。

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日能研は9歳から12、13歳くらいまでの数年間が
人間に与えられた「学び、育つ期間」の中でもとくに大切な宝物のような時間ではないか、
と考えています。

この時期に子ども自身が
「意図的に自分を意識し、その自分が意図的にどんなチカラを使い、
意図的にどんな計画を練り、意図的にどんな分析をし、振り返りをし、学んでいくのか」
ということは、一生の学びの原型となり、
ひいては社会に出た後にこそ大きなチカラになると考えます。
「自分の力を使って自分をつくる」経験をできるのは、
ひょっとしたらこのときだけかもしれません。

大人の影響力は大きく、強力です。
従順な、いうことを聞く子に育てたいという気持ちから
大人の考えた学びをさせようという考えも、多く耳にします。

でも。

この時期、子どもたちに必要なことは大人の影響の支配下に置くことではなく、
大人の手助けです。

子どもが中心にいる学び。
自分が意図的に学ぶ人になるための経験。
差し出された手の温かさに感謝すること。
日能研はそんなことを大切にしながら、この時期の子どもたちとともにいます。
子どもの将来を思い考える私立中学進学というテーマを共有して。

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やってみよう、使ってみよう。
[日能研が考える「体験的に学ぶ」ということ]

どんな未来がくるんだろう?
未来には何があるんだろう?
子どもの頃考えたことがありませんか?
大人達の話を聞いて、過去の延長に想像できる未来をつなげ、
思い浮かべたこと、ありませんか?

いま、同じように
これからの未来を想像できるでしょうか?
昔どおりのことがこれから先、
同じように動いていくと思えるでしょうか?

私達は「もう既に過去の延長線上に未来はないのでは」
という考えを持っています。
昔できたことができていればいい、
昔、覚えたことがもう一回できればいい、
昔がそのままつながって少しずつよくなっていく未来・・・
そんな未来はもうないのだろうと。

この考え方は、そのまま日能研での学びにつながっています。
「体験的な学び」です。

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そもそも学びは大きく2種類に分けられます。
「覚える、写しとる」学びと「やってみる、使ってみる」学びです。

昔どおりの、昔の延長線上の未来であれば、
覚える、写しとることは、その未来を幸せに生きていく方法として
役立ってくれるかもしれません。
でも、何かを変えなければいけない、新しくつくり出さなければならない。
今まで見たことも聞いたこともないようなものを
生み出さなければいけないとしたら?
「覚えている、知っている」だけで幸せをつくることができるでしょうか。
どうにも心もとない気がしませんか?

体験的な学び--「やってみる、使ってみる」という学び--は、
まさに未来に向けた今をどうやってつくっていくかというアプローチです。
出会ったことのないもの、未知のことに対して
自分の体験から学んだものを生かして向き合う学びです。

やってみる、使ってみる。
立ち止まって、振り返る。
自分は何をしたんだろう?
どんなふうにしたんだろう?
こうすればもっとよくなるかな?
ともだちはそんなふうに考えたのか!

模範解答はありません。
あんなこと、こんなこと、揺らいだり、寄り道したり、
さまざまな体験を通した学びがそこにあります。

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と、こんなふうに書いて思うのは、
このお話、理解して共感していただくには
価値観の変化が必要なんだろうな、ということです。

覚えたらできるという世界であれば、○がいいことで、×が悪いこと。
だって、同じことができれば○で、くり返し同じことができるのがいいことで、
誰にもわかりすい基準がある。
でも、今までにないものをやってみる、試してみる、
つくるとなったら、どうでしょう? 
確実に○が予想できるでしょうか。
いったい確実に○になることが可能なんでしょうか。
ひょっとして、○をつけてくれる人って、いるんでしょうか。

誤解を恐れずに言えば
体験的な学びの中で必要なのは、すべてが◯じゃなくていいことです。
方向性があって、やってみて、
いろんな模索をしてつくられたものならば、いい、と考えます。
圧倒的に×じゃなければいい。中間的な○で十分。
途中の×は体験の一部、学ぶことのできる素材、豊かさへの目覚め。
失敗や間違いは、自分がこれからまだまだ学んでいけるということの証明であり、
そのことを知る体験は、とても力強い一歩だと思えるから。

価値観の変化が必要、というのはまさにこの点です。
過去に対して○をつけるのか、
これから進んで行けるじゃないかって未来の自分に向けて○をつけるのか。

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ひょっとして突飛な考えを述べているように受け取られるかもしれません。
でも、何が起きるかわからない未来へ備えるために、
これこそが求められる学びではないかと、私達は考えます。

もうひとつ、補足します。
体験的な学びには「意図して学ぶ」という行為が必要です。

「同じこと」は無意識にでも繰り返すことができるようになります。
でも、「何かに向かって自分が」と考えるとき、
一つひとつの事柄を意図的な行為として取り組む必要があります。
“体験的な学び”の中で立ちどまって振り返ったときに、
意図的な行為は、何があったのかを探し、見つけ、気づく糸口となります。

何でやったんだろう? 
自分は、なぜ決めたんだろう? 
何で選んだのだろう? 
自分の中の何が選ばせたのだろう? 
さまざまな体験の、学びの「主語が自分」でなければなりません。

自分の行為を、自分の意図として行ったことだと、自分で確認できれば、
次の未来、これからどうしよう、ということを考え出すことができます。
偶然ではなく、思いつきでもなく、繰り返すのでもなく。
自分の意思でつくり出す、意図した次の未来を、です

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大切なことは、自分自身になること。
[日能研の考える子どもの成長]

ある著名な芸術家が言いました。
「ライオンの石像をつくるなんて簡単なんだよ。
彫刻をする石からライオン以外の要素を全部削り取ってしまえば、
そこにはライオンがあるんだよ」

私達はこの言葉と、「子どもが自分自身になる」イメージとが重なるように感じます。

子どもはきっと自分という要素を持って生まれてきて、
大人はそっと手を貸して、自分以外の要素を削り取っていく手伝いをすればいい。

ただしこのとき、量に着目して比較したがる大人の穿った見方が動き出すかもしれません。
その石の大きさはもともとどんな大きさだったんですか?
大きな石からは大きなライオンができますよね?
小さな石からは小さなライオンしかできませんよね?

でも。

大切なことは、
大小ではありません。
高低ではありません。
多少ではありません。

自分自身になる、ということです。

自分の意志で、
他者からの影響も受け止めながら
私を主語に、
自分自身をつくることです。

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