2月1日の朝、いつものように好きな音楽を流し起床。1月の併願校受験の日からルーティンとなったいつも通りの朝。しっかり朝食をとった後、日能研のZoomに接続、教室の先生方からエールを受け、最後は画面越しに先生と握手をして出発。第一志望の中学校に向かう途中も、いつも通り他愛のない会話。山手線の車内デジタルサイネージで流れるニュースを見ながら感想を言い合う。いよいよ開成中学に到着。グラウンドで待機している間「なんで線路側のネットだけつぎはぎがされているんだろうね」「あっちに向かって野球部がバッティング練習をしているんじゃないの?」「というか、他の学校と違って在校生の姿が見えないね」「ね、他の学校では試験監督や道案内に生徒がいたのにね」といったこれまた他愛のない会話。時間が来て、列が流れる。いよいよ会場へ。息子は、いつも通り、1回だけ振り返って、大きく手を振った。私も大きく手をあげて応える。校舎の陰に消えていく息子。「ふう」と思わず漏れた息。私自身、こうしてリラックスした様子で息子を送り出せたことに、この雰囲気でこの日・この時を迎えられたことに、大いに安堵した瞬間だった。
ここまで、決して平たんな道のりではなかった。
第一志望校をK中学に、と決まったのは5年生の夏。この頃、ちょうど、息子の成績が伸び悩み、一方で夏期講習中に自習室に通っても友人としゃべってくる、家でもダラダラしており勉強をしないということがあった。いくら注意しても直らない。元々、中学受験自体に賛成していなかった私たち夫婦は、息子の学習態度にいら立ちを覚え、教室に相談に行くことにした。もう日能研をやめさせ、中学受験もやめようと思った。いわゆる「受験撤退」というやつだ。こんなに怒ったり、怒られたりしながら、勉強したり、させられたりするより、この時間を自治体が主催する文化事業やスポーツ行事に参加した方が、親子ともにストレスがなく、幸せになると考えた。しかし、そこで先生がおっしゃったのは、息子が日能研では意欲的に授業に参加しているという事実と、このまま頑張れば、希望の学校に合格できるということであった。あわせて、「親御さんがいくら言ってきかせてもダメで、本人がその気にならないといけない。本人が中学受験をやめないと言っている以上、本人が頑張れる環境を用意してあげてください」とのことであった。その晩、息子も交えて話し合いを行い、第一志望校を開成中学に決め、そのために自らが寸暇を惜しんで努力をすること、親も応援することを約束した。
しかし、こうした「約束」の効果も一ヵ月ももたず、その後も幾度となく「親子バトル」は勃発した。親から見ると、様々な「ねば」や「べき」(例 次の授業までに宿題はやら“ねば”ならないだろ、日能研全国公開模試でできなかったところは模範解答を見たり先生に聞いたりするなどし全てできるようにす“べき”)が発生した。しかし、息子はやらない(場合によっては「やれない」)。頭では、こうした「ねば」や「べき」をぶつけても意味がないと理解しつつ、やる気がないとしか思えない汚い字で書き殴られたメモチェや、あれほど注意点は線を引いて解くようにとアドバイスしているのに真っ白なままの問題用紙が目につきイラつく。加えて、乱高下する偏差値。偏差値も、単なるツールの一つであり、相対的な指標でしかないと頭では理解しながら、親子で一喜一憂した(一喜一憂しても仕方がないとわかっているのだが)。
そのたびに、先生の言葉を思い出し「親にできるのは環境の整備だけ」と自分に言い聞かせてきた。様々な出来事があっても、「最後は本人のやる気。親にできるのは、環境の整備と、本人のやる気を削がないことだけ」と頭の中で繰り返す・・・そう、これはまさに私にとっての修行となった。
そんな修行を繰り返し、いつしか、私は、息子を「叱咤激励して走らせる監督」ではなく、「二人三脚で走る伴走者」でもなく、「沿道の、ただ最も熱心な応援者」の境地に至った。結局、試験当日、問題用紙に向かうのは息子一人であって、私ではない。目指すゴールに向かって頑張る息子を、一生懸命応援する、そうして最高にリラックスした状態で、万全の体調で送り出す、これが修行を成し遂げた私の目標になった。結果はともあれ、本人が力を発揮できる環境をしっかり提供したい。悟りを開いた瞬間だった。
今春、息子は晴れて第一志望のK中学に入学する。最後まで目標に向かって走りぬいた息子を誇りに思う。同時に、この受験勉強を通じ、私自身も目標を達成することができた。この経験が何に活かせるか、今はまだわからない。ただ、確かな手ごたえを胸に息子の学生生活を引き続き応援したい。
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