
私立中高一貫校 帰国生OB&OGによるパネルディスカッション 前編
帰国子女相談会 in 実践女子学園 (2010.7.25取材)
去る7月25日(日)開催の帰国子女相談会への多数のご参加、誠にありがとうございました。相談会と併行して行った、「私立中高一貫校 帰国生OB&OGによるパネルディスカッション」の模様をレポートします。今春、跡見学園、渋谷教育学園渋谷、東京女学館を卒業した大学1年生の体験に、参加者は時に頷き、時に感心し、それぞれに先輩の体験に感じるところがあったようです。
前編、後編2回に分けてお届けします。
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前編
『自己紹介』
- ▼ 司会
この時間は、帰国生OB、OGによるパネルディスカッションに、3人の方をお迎えしております。最後までどうぞよろしくお願いいたします。
今日こちらにお集まりいただきましたのは、生まれてから中学に入るまでのいずれかの時期を海外で過ごされ、帰国してから中学受験を経験。中高の6年間は都内の私立中高一貫校で過ごし、今年の春からそれぞれの大学に進学されている方々です。
では、私の右、皆さまから向かって左側に座っている、SK君から、簡単に自己紹介をお願いいたします。
- ▼ SK
こんにちは。渋谷教育学園渋谷高校卒業のSKと申します。今年の3月に卒業しまして、アメリカのプリンストン大学に行きます。アメリカのスケジュールの都合から、今年の8月末に渡米して、4年間過ごす予定です。自分は4歳から9年間海外で生活しました。最初の4年間はアメリカのニュージャージー州、その後5年間はフランスのパリで暮らしました。中学入学前に日本に帰国しましたので、日本の小学校には通っていません。よろしくお願いします。
- ▼ MT
今年の3月に跡見学園高等学校を卒業しましたMT と申します。今年の4月に慶應義塾大学経済学部に入学しました。私はニューヨークで生まれ、2歳までカナダで生活し、3歳の時の1年間日本に戻っていました。その後中国で2年間過ごし、日本の小学校には1年生の時だけ在籍していました。その後再び渡米し、小学校2年生から6年生までの5年間は、アメリカのニュージャージー州に滞在しました。本日はどうぞよろしくお願いいたします。
- ▼ YK
東京女学館高等学校を今年の3月に卒業しましたYKと申します。今年の4月に、早稲田大学法学部に入学しました。私は1歳の時にアメリカのニュージャージー州の方に行き、7年間生活して、小学校3年生の時に戻ってきました。
『現地での学校生活』
- ▼ 司会
- 皆さんそれぞれ帰ってこられた時期、過ごされた期間等も違うのですが、それぞれ現地で通われていた学校のお話を聞かせて下さい。
- ▼ SK
- 自分は、4歳から8歳の間はアメリカにいて、その時に通った幼稚園と小学校は現地の英語だけの学校でした。毎週週1回は、近所の日本語の補習校に通って、そこと家庭内でだけ日本語を話していました。その後、8歳から12歳までフランスにいる間は、フランスのアメリカンスクールに通いました。インターナショナルスクールに近いのですが、そこで英語で生活をしながら、フランス語の授業も受け、帰宅してからは家庭内で日本語を話していました。
- ▼ MT
- 私は小学校2年から6年生まで、平日はアメリカの現地校に通いました。英語が日常生活の言語だったのですが、週1回土曜日には補習授業校という日本語の学校に通っていました。
- ▼ YK
- 私は1歳の頃からアメリカに滞在しておりましたので、幼稚園も小学校もアメリカの現地校に通っておりまして、みなさんと同じように土曜日には日本人の補習校に通って日本語で教育を受けていました。
- ▼ 司会
- SK君はアメリカで現地校に4年通われ、その後フランスではアメリカンスクールに通われたということですが、フランスで現地校ではなくアメリカンスクールを選ばれたのには、何か理由があったのでしょうか?
- ▼ SK
- アメリカでの4年間のうち、最初の頃は英語に慣れていなかったのですが、過ごすうちにだんだん日常会話に慣れていきましたので、フランスに行ってからもその英語を忘れないように、家族と相談して、英語が日常会話であるアメリカンスクールに行くことにしました。
- ▼ 司会
- 海外のそれぞれの学校に通われた中で、楽しかったこと、また、辛かったことなどはありましたか?
- ▼ YK
- アメリカに滞在されていた方だとわかると思うのですが、アメリカには様々な国籍を持った方がいらして、いろいろな国籍の方々と一緒に幼少期を過ごすと、それぞれの文化を知ることができます。日本では経験できないことだと思いますので、良かったと思います。年に1回インターナショナル・ウィークというのがあったのですが、そういう日には親御さんがそれぞれ自分の国の料理を作って持ち寄ります。私の場合は、母が日本料理を作ってそれを提供していました。みんな自分の国の民族衣装を着たりします。開催の時期は正確には覚えていないのですが、年に1度そういうイベントがあるので、日本の文化を知る機会にもなり、アメリカでの生活は楽しかったなと思います。私にとってはアメリカが母国のようでしたので、日本に帰国してからの方が辛いことは多かったです。
- ▼ MT
- アメリカの一戸建ての家にはプールがある家が多くて、現地で知り合った友人などを呼んで夜遅くまでプールパーティーをするのが何よりも楽しかったです。
私が小さい頃には、カナダや中国にも父が転勤していたのですが、そこでは日本人が通う幼稚園に通っていましたので、英語にはまったく触れる機会がありませんでした。再びアメリカに転勤した小学校2年生から英語を学びましたので、英語が身につくまでの最初の2年の間には、わからないこともあり、辛いこともありました。 - ▼ SK
- 自分は、海外にいた頃は特につらい思いもしませんでしたが、逆にそこまで積極的というわけでもなくて、今思い返してみますと、なんとなくいろいろな国籍の人と話してはいたけれど、深い友達関係を作れなかったということが心残りではあります。
楽しかったことは、フランスのアメリカンスクールでは、日本人だけでなくて他の国、例えばアメリカ人とかヨーロッパの国々の子どもがいて、おそらく日本の小学生や中学生より、みんな少し大人びていたように感じましたので、そういう活発さを楽しんでいたと思います。
『帰国が決まって』
- ▼ 司会
- では、ここからは「帰国するまで」から「帰国した頃」のお話をうかがっていきたいと思います。
- ▼ SK
- 自分がフランスから日本に帰国するのが決まったのは、受験の1年以上前でしたので、日本でいうと小学校5年生の最初の頃だと思います。
- ▼ MT
- 帰国が決まったのは、ちょうど受験期間でした。父の海外勤務もだいぶ長くなっていましたので、おそらくそろそろ帰国するだろうと母が予想していました。中学から大学までは日本の教育を受けさせようと、帰国を意識していたのだと思います。それで私自身も中学にあわせて帰国するんだという気持ちが強く、受験勉強の方は、先に進めていました。ちょうど運良く12月に父の転勤が決まり、一時帰国して受験して、中学の入学前に日本に帰国しました。
- ▼ YK
- 私はアメリカを母国のように思っていましたので、「日本に帰る」というよりは、「新たな環境に入り込む」という感じでした。まだ小さかったのですが、友だちとの別れや不安、ショックは大きかったです。
- ▼ 司会
- 皆さんが帰国をされてから苦労したことや、日本の生活にどのようにして馴染んでいったのか、またその時の苦労話があれば聞かせてください。
- ▼ SK
- 自分は漠然としたいじめに対する恐れがありましたので、中学校に入った時は、なかなか積極的に帰国生である自分を出せなくて、日本のテレビやゲームの話題にはついていけませんでした。最初の1~2年間は、どのくらい自分の帰国生の経験を出せば良いのかわからずに苦労した覚えはあります。
- ▼ YK
- 特に印象にあるのは、日本とアメリカの学校の環境・感覚の違いです。海外では授業中に発言することは普通のことですが、その感覚で日本に帰ったら、日本ではそれが普通のことではなくて、逆に「あの子、なんであんなに積極的なの?」という好奇の目で見られたのがとても辛かったです。これがカルチャーショックで、最初の2年ほどはとても苦労しました。小学校時代は、「この子は帰国生なんだ」とわかると、興味本位で話しかけてくれるのですが、だんだんに「この子はちょっと違う」と思われることがありました。日本の学校と海外の学校の大きな違いで苦労したのは、授業中のパフォーマンスや授業態度の違いでした。
『帰国後の英語力維持』
- ▼ 司会
- 帰国後に、英語力をどういうふうに維持をされたのでしょうか。帰国から現在に至るまでにどのような努力をされたかを聞かせて下さい。
- ▼ SK
- 僕は受験のために一時帰国して、入学式の直前に本帰国しました。渋谷教育学園渋谷では、英語の授業は帰国生のみのクラスがありました。それとは別に、授業外でも英語に触れなければならない機会も多く、英語力の保持に関しては、学校の授業とその課題で精一杯だった感じです。英語の塾には通いませんでした。
- ▼ MT
- 私は、文法的な知識などないまま、現地で英語を身につけてしまいました。例えば、「三単元のS」とか…。ほとんど感覚で英語を話していましたので、中学に入学してから、基礎的な文法知識を学ぶのは、私にとってはとても良いことでした。基本的なことをまず学ぼうというのはありました。でも、やはりそれだけでは物足りない部分がありましたので、英語の映画を観たり、自分のレベルに合った英語の本などを積極的に読むようにしていました。
- ▼ YK
- 私は小学校3年生の途中で帰ってきましたので、母は私が英語を忘れないように近所の英語塾に入れてくれました。ネイティブの先生と週に一度英会話しながら、英語の環境に触れることに努めていました。中高は、東京女学館に通いました。私の代から国際学級という新しい学級ができまして、私は第一期生です。そこのカリキュラムは、現地のアメリカの中学校・高校の教育に対応した授業をするというものでしたので、中高ではその学級での授業で、毎日英語に触れることができました。
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