大好きだった居場所を巣立って、

  • Vol. 1508 : 2017/08/01

豊島岡女子学園中学校女子校

誰よりも長い時間、日能研で過ごした女の子がいました。

『大好きな居場所に、長い時間いられる環境をつくってくださった皆さんの存在が合格の主因です!!』と、母もおっしゃってくださいました。
他の教室に遠征した帰り・イベントの帰り・公開模試の帰りなどなど…。
通室日でなくとも、その子はいつも教室に立ち寄ってくれました。

自分の信念にも実直でした。そのためか、目の前に現れたハードルを何が何でも越えていくのです。
突如視界が良好になりすぎて、不安を抱くこともありました。
しかしそんなとき彼女は、我々に相談して敢えて越えるべきハードルを設定するのです。

たくさん笑い、たくさん描いて、たくさん食べました。
『おいしいものを食べるのに、躊躇する必要なし!!』彼女はそう言いながら口いっぱいに頬張るのでした。

そんな彼女でも、ときには涙することもありました。
『受験勉強のつらさ、大変さは我慢できる。でも、悔しさには我慢がきかない』
何気ない彼女の言葉が蘇ります。

糸口の見つからない問題に出会ったとき、方向性は合っていたのに条件を読み飛ばして行き詰ったとき、必死に解決策を講じる姿が印象的でした。

『道義実践』 『勤勉努力』 『一能専念』
彼女が入学したい学校の、建学の精神をまとめたものです。
6つ上の姉が通っていた学校でもあります。

『憧れ』なんていう簡単な言葉では言い尽くせません。信念なのか情念なのか。受験直前期は、もはや執念の塊になっていました。


彼女が実行してきたこと。彼女の心に宿っていたもの。建学の精神とすべて通底しているのです。
姉の背中を追い続け、思い描き続けたのであろう自分の通学する姿。
そして実力を大いに発揮し、それを実現へと結びつけることが叶いました。
既に学校の一員になった状態で受験期を過ごしていたのでしょう。


しかし合格発表の後に、家族と我々を巻き込んだ事件が起こりました。
2月1日に受験した、ある難関校にも合格していたのです。

『父』『母』『父の会社の同僚(なんとある難関校の出身者)』その他大勢が、ある難関校を推したのです。
我々も、さすがにこのケースは本人も迷うだろうな。と、思っていました。

しかし。
彼女は事も無げに言ってのけたのです。

『私は豊島岡に行くって決めてあるの』

豊島岡女子学園は、1892年に開校した女子裁縫専門学校が前身です。
その後第4代校長二木謙三先生がまとめた建学の精神。
連綿と受け継がれてきたそのミームは、既に彼女の中に浸潤しきっていたのです。

こうやって
大好きな居場所の門をこじ開けたのでした。

ぺらぺーら

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