「礼拝」の場で語られたこと

  • Vol. 399 : 2011/01/10

女子学院中学校女子校

女子学院の学校説明会に参加してきました。
土曜開催の回ですが、生徒はいない状況ではあるのですが、まずはじめに平日朝開催のものと同様にパイプオルガンの演奏とともに礼拝が守られました。(約15分)

「キリスト教主義の学校」では礼拝があるところも多いのですが、どんなことが語られるのか、具体的には知らないという方も多いかと思います。なので、その一端を感じ取っていただければ幸いです。

讃美歌を歌い、そして聖書の朗読があったのちに、院長先生のお話が始まります。

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今回取り上げた「ルカによる福音書12章13~21節(愚かな金持ちのたとえ)」で思い出されたのは、ドイツの社会心理学者・エーリッヒ・フロム(「自由からの逃走」で有名)の「生きるということ」という本です。原題は"To Have or To Be"(持つことまたは在ること)となっているのですが、このことについて今日は少し考えてみたいと思います。

「持つ」ことを大事にする生き方(お金・資格・学歴…)は「失うことへの不安」「持つことへのさらなる欲求」に縛られてしまうものです。
それと対比して「いかに在るか」を大事にする生き方を考えてみたいものです。
確かに人間は少しでも快適な暮らしをしたい、という自然な欲求を持っています。
しかし、「貪欲」になってはいけないと思います。「旧約聖書」の「バベルの塔」をご存知でしょうか。
より高く、より高く、と思いあがりとも言えるような心で建てた塔は、最後には全て崩れ落ちてしまいます。
他をないがしろにし、自分をおさえられない姿は「神(人知を超えた存在)の否定」にもつながるのではないでしょうか。
キリスト教では、死は終焉ではありません。死後の世界、というものがあると信じられています。
だからこそ、死を前にしても心を高く持ち、希望を持って進むことを求めているのです。
「天に富を積みなさい」「あなたが富を積むところに、あなたの心もある」とも聖書には語られています。
「いかに在るか、いかに生きるか」を考えられる人でありたい、と私は思うのです。

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礼拝があることで、みなが信者になる、というわけではまったくありません。
ただし、キリスト教をベースにした倫理観とともに6年を過ごすことで、世の中とどうかかわるのか、「どう生きるか」ということに対して真剣に考えるようになるのかもしれませんね。
そして、その考え方を保護者の方にも心から理解してもらいたい、という学校側の思いも伝わるものでした。

その学校の本質を理解することの重要さを深く感じました。
                         

教室スタッフ/マグノリア

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