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親と子の栄冠ドラマ -中学入試体験記-

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併願作戦~千葉入試の失敗を経て、芝、暁星、芝浦工業大学柏(GS)、栄東合格

  • 年度:2017
  • 性別:男子
  • 執筆者:
日能研に入った最初の頃から、教室長の先生から併願作戦のことを言われていた。
「千葉の入試で偏差値が57~60の人は、芝浦工業大学柏など必ず受かる一校を押さえる」
「最初のテストで偏差値60ならば、だいだい最後も60です」
これらはどちらも、最後に確信できることになった。

小3~4年生から積極的に学校を見に行った。
上の子は女の子であったから、千葉の共学校のことは知っていたが、東京の男子校のことは知らなかった。
高学年では遠くまで学校を見に行く機会は少なくなるだろうと思い、東京の男子校の文化祭を息子に見せて、お兄さん達の態度と彼の雰囲気が合うかどうか親の目から見た。
先生の言葉に従い、偏差値60前後の学校を見にいった。
最初に行ったのが、偶然にも芝だった。息子は幼いながらもお兄さん達の弟分のように溶け込んでいた。
いくつかの学校の文化祭を見に行って、好感を持ったなら、親が説明会に参加し距離感や方針を頭に入れた。
本人もまるで自覚がなかったが、印象だけはある程度覚えていて、6年生になってからも、「あの学校だね!」と思い描けることができた。

4~5年生になると、千葉の学校の文化祭を見に行った。どこが良かった?と本人にきくと、良い評価はあてにならないが、悪い方ははっきりしており、好みは明確にあるらしいことがわかった。
5年生のときに、私が病気になって長期入院し、学校見学に行けなくなってしまったが、幸い多くの学校を見てあったので、困りはしなかった。
息子は日能研に貼ってあるポスターをみたり、先生や先輩に話しを聞いたりして、想像を深めていったようだ。
6年生のNフレンズの際には、お兄さん達とお話しして、お兄さん達の姿から、自分に合う友達がいるような学校を希望し、だいたいの順位が確定した。

好きな学校の上位(1~4位)は、自分で決めた。親は口出しはまるでしなかった。
志望の上位の学校については、6年生のときの文化祭や模試の会場で、もう一度見る機会を作った。両方合格のときに、自分で選択できるようになるためである。
併願校は親が決めるけれども、「自分がどの学校に行きたいのかわからないと言うような子どもに、育てた覚えはありませんから。最後は自分で決めるように」と、口を酸っぱくして言い含めた。
過去問を解くとき、その学校がどんな生徒を欲しているのか、という明確なメッセージが知らされてくる。志望校の中でも、より合う学校、好きな学校があることが、はっきりとわかった。
暁星の問題は好きだった。芝にも好意を感じた。芝は12月の模試で行ってみて、第二志望に浮上した。
「学校を見ただけでわかるの?」と言うと、「目安箱があった、屋上に星の観測所があった」と嬉しそうだった。
もともと私は1番好きな学校だったが、病気をしてから、親がいなくなってもいつまでも面倒を見てくれる学校に行ってほしいと強く願うようになっていた。

5月に先生と面談があった。あらかじめ、今まで見た中で、好きな学校、好きでない学校をいくつかあげておくと、うちの家庭に合いそうな抑えの学校を先生が紹介してくれた。
先生の紹介してくださった学校は、わが家の好みに合う学校ばかりで、先生の洞察力に舌を巻いた。その中から、場所、日程、目指すところ(将来の道が限定されないように、間口の広い学校)などで絞った。
日程を考慮して、第一志望から第八志望まで、埼玉受験を除き、好きな学校だけで組み合わせられることができた。
親は、1つしか合格しなくてもそこに行けばいい、と思った。偏差値が高くても嫌いな学校や、好きでも遠くて通えない学校は入れなかった。だって、そこ1つしか合格しない場合、どうすればいいんだ?過去問やるのも苦しいし、延納で支払いするときも嫌な気分になるし、6年間通うのに遠いのは好きでも妨げになり、悩みが多くなるからだ。
1回も行ったことがなく進学するとなると困るので、本人も一度は模試でいくようにしておいた。
我儘な親の希望も、併願作戦によって可能になった。塾の存在意義は、こういうことにあるのではないだろうか。
遠い学校の中から、自分の求めるレベルの志望校を探すのは困難だから、希望を伝えて手伝ってもらえばよいのだ。
そんなわけで、併願が決まったときから我が家は平和で、着実に勉強していれば、自分の実力相応の好きな学校に入れるだろうという日能研の典型的な作戦だった。
東邦で失敗したときに、芝浦工業大学柏のGSに通っていて、本当によかった。ここに進学してもいいと思っていたから、東京入試に予定どおりに進めた。

年始に近所の神社のおみくじで、神様から言われた言葉。
「春風の吹けばおのずと山かげの梅も桜も花は咲くなり」。心をかたく持って一時の不運にあわて騒ぎ思い迷うようではいけません。本業をよく守って静かに時の来るのを待ちなさい。という意味だそうだ。
息子は、このおみくじを試験前になんども眺めていたらしい。
まさに仕組まれたような名文だった。

冬休み前までは、のんびりやの息子だから、受験の緊張感もなく、計算ミス、問題の読み間違い、文法上の誤り、漢字の誤字が多いなど、やきもきした。
しかし、私は「君は、早生まれで発達が遅いところがあり、赤ちゃんか1歳になるまで歩けないのと同じように、上手くいっていないところがある。千葉入試を試行錯誤しながら、粘り強く見直し、自分を修正していければ、2月になったら確実に伸びるだろう」と言い続けた。
願えば本当になるものだ。

11月の初めに、過去問ノートを見ていただいた国語の先生から、厳しい指摘があった。
「助詞、助動詞の使い方に誤りが多いので、十分に気をつけてください。誤字や書き落としが多く、内容があっているようでも、採点者がどう採点していいのかわからない。志望順位の高い学校なら再度解き直しを」
息子は私に先生の言葉を告げ、黙々と再提出の答案を作った。その後、記述の文章を読み直し、自分で校正するようになった。そして文法的に問題ない文章かどうか、親に意見を求めるようになった。
1ヶ月ほどすると、「先生から、随分よくなった、と言われたよ」と笑顔で報告してきた。先生のプロフェッショナルな見立てに感心した。
国語が成績が良くなってきたのは、この頃からだ。記述が書けるようになり、形を成してくると、記述の方が彼のよい味(素直さや真面目さ)が出せるような気がしてきた。

算数も難題山積みだった。10月に100日プリントが解けないとわかった頃から、問題が表面化し始めた。
計算も4割間違える、問題の文章の意味がわからない、適切なサイズの表が書けない。解法は理解できても点数にならないのだ。
いつも間違える解き直し問題や、ファイナルや銀本の新しい問題や、問題の文章の意味がわかりにくい問題など、どれもこれも解く必要があった。また解くのも遅かった。
今まで、出来るようになる時期がくるだろうと思って、淡々と解き直し、無理もせず、放置してきたツケがまわったのだろうか。
演習を積んで冬休み頃からだんだん良くなってきたけれど、波があって、悪いときはとことん悪い。理科と社会で逃げ切れないかと思ったが、それは甘かったか。

そして東邦の算数で、小問集で1問しか合っていないという失態を演じ、不合格だった。
国語も選択肢を吟味するときに、問題文の見直しをしていないことがわかり、どうして今までやっていない手法でやるのか、親も混乱した。
学校が始まってからは過去問をやっていない。頭の中だけでミスをしない方法を考えているのが、よくないかもしれない。
「過去問に戻ろう。今ある知識と今ある時間だけで何ができるか考えよう」

千葉入試が終わってから、息子は芝の過去問を猛烈な勢いで解き始めた。
国語はカンを取り戻したのか、すぐ出来るようになった。男子校の国語問題は楽しく、易しいようだった。
試験中の様子をみていると、算数で最後の15分暇にしていることが判明した。あとから粘れば解ける問題がまだあり、ミスもあり、20点ほど無駄にしていることがわかった。
過去問に取り組んでいた最中だったが、ついに声をかけた。「解ける問題はない?」「全部あっている?」
ハッとしたように、問題を見直しはじめた。
その後、「解ける2題を探す、見直しでミスを2題見つける」最後の15分前になると私はそれだけを言い続けた。
得点は受験者平均ぐらいだったのが、めいっぱい解ければ合格者平均ぐらいになるとわかり、ジリジリと合格者平均に近づいていった。
10年間の過去問をとき、課題を克服。算数が得意になったわけではないが、本番は、合格平均をわずかに下回るぐらいで、余裕があったようだ。
理科は失敗したが、国語、社会のカバーで、お釣りがくる程度の点が出た。

入試は、良い意味でも悪い意味でも、実力通りの結果だったと思う。
苦手な算数の勝負になり、最後は教室長のおっしゃるように「執念」が結果をもたらした。
一方彼の心には、成長の証がいくつも見られた。
チャレンジ校の入試の前日に、「万一通ったらついていけるか?」と不安を口にした。
寝しなに、親の成功や失敗とその思いについて語った。思いがけなく、親として大事なことをこの機会に言うことができたことに感謝した。
結果がどうであれ、チャレンジさせた意味はあったと感じた。
また、不合格の掲示版を涙ながらに黙って見つめるのには、なにも言えなかった。自分の力の足りなさに他人がかける言葉はないのである。
入試期間中、親は気持ちよく受験させてあげる手伝いをするだけで、叱咤することも慰めることもなかった。ただ、じっと見つめていた。
不本意な千葉入試のあと、息子の執念を見たような気がする。今まで感じたことのない姿で、黙々と一人耐えていた。あんなに赤ちゃんだったのに、ずいぶん大きくなったのだなと思った。

先生方、3年間見守ってくださってありがとうございました。
これからは親の力を離れて、先生や先輩や友達の力で社会の子として生きていくことを、なんとなくわかったようになった気がします。
今後も寄せられたドラマを、各カテゴリーに随時アップしていきます。
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