我が家が中学受験を決めて、日能研に通い始めたのは娘が5年になった頃。
主人は中学受験の経験者であり、主人の両親も妹もまた中学受験推進派。
母である私は、中学受験の経験がないのはもちろん、
高校までは公立高校に進学するというのが当たり前だった環境で育ったため、
中学受験の大変さも良くわかっていない。
そんな家庭環境で臨んだ娘の中学受験。
日能研に通わせるようになってから”中学受験は親子で乗り切らなければならない”というのをよく耳にした。
その言葉通りなのかどうかわからないが、
主人の子供の教育に対するの熱心さに度々驚かされる場面も多かったこの2年。
小学生の娘には少し厳しく、可哀そうに思えた事も度々あったが、
私は、弁当作りや必要に応じての送り迎え、保護者会への出席や試験の引率など、
実働に関するサポートを主に行い、勉強に関するサポートは主人の意見を尊重することにした。
それでも、やはりその厳しさに、見ているこちらも辛くなることも多々あった。
私が甘い言葉を発すれば、甘すぎると主人に怒られ、私の言葉を信じて動いた娘もまた怒られる。
この2年間、自分の中では、いつも葛藤が生じていた。
娘の中学受験は、私にとって、親として子どもにどう接するか、子どもをどう育てていくか、考えさせられるものでもあった。
主人は日能研の情報はもちろん、中学の情報収集もMY NICHINOKENにログインすることから始まる。
テストの結果が出れば、出張先からも仕事先からも、MY NICHINOKENで結果を確認し、娘にアドバイス。
データを分析し、よく見ていた。
受験が近づき日能研のテストもなくなった年明け、
娘の苦手な科目の克服の為に、過去のカリテや公開模試等のテスト結果を見て、
正答率が悪いもの、苦手とされる分野の単元を抜き出し、
もう一度やってみたらどうかと一覧表にして私と娘のところに持ってきた。
娘の希望は共学校、主人は付属校に興味はなく、あくまで娘に薦めていたのは進学校。
そんなことから、娘の受験校は、共学校&進学校に絞って臨んだ中学受験。
2月の受験の為に出願したのは2校だけだったが、
私のかばんには、当日の願書提出にも対応できるように、すでに書き込みの終わっている複数校の願書、写真、受験料分のお金を用意していた。
願書や入試要項、日能研からの入試に関するアンケートも一緒に、1校1校クリアフォルダに入れ、
表紙には入試日程、合格発表日、手続き日、入学金の金額や納入期限、
当日願書を提出する為に用意してあった学校には、どのパターンになったら、この願書を提出することになるのかも記載しておいた。
そしてこれらのファイルを1つのドキュメントファイルに入れて保管し、受験当日はドキュメントファイルごと持ち歩いた。
2月1日、第二希望の学校に無事合格出来たので、
2日からは第一希望の学校のみに絞って試験に臨む、予定通りのスケジュールとなった。
希望校の受験日初日、出来に手ごたえがあったのか、夕方HPに挙がった解答例を基に自己採点。
本人は合格が手に入ると期待を大きく膨らませたのだろう。
明日から小学校に登校できるかもとも話すほど、喜んでいた。
ところが夜の合格発表を見ても自分の番号はない。
発表された合格最低点には、過去問題集に載っている推定配点を基に計算した自己採点では達している。
あまりのショックに2回目の挑戦となる翌日の試験は気持ちが途切れてしまい、合格最低点にはるか及ばず完敗した。
受験最終日、例年3回目の合格者数は少なく、限りなく合格の期待は薄くなるが、
繰り上げ合格に必要な3回受験をクリアする為にも受験に臨んだ。
会場から出てきて私に最初に報告したのは、算数の問題が3回の試験で最も簡単だったという事だった。
算数の得意な娘には、この試験では算数の点で差がつけられないと思ったのかもしれない。
最後の試験が終わり、家に帰る途中の電車の中で、娘が私に
『ママありがとね』
と言ってくれたのは、とても嬉しい一言だった。
残念ながら、娘は目標としていた第一希望の中学校には合格しなかったものの、
R4値が娘の年間偏差値の8~10も上の学校に臨む事が出来、あと少しで手が届くところまで来ていたのは、
テストの結果を自己採点する限り事実である。
ここまで頑張った事だけでも素晴らしい事である。
第二希望校にはなってしまったが、4月からは、合格を手にした中学校への入学が決まっている。
今度は大学受験に向かって、勉強に部活に様々な行事へと取り組んでいくことになるだろう。
私立で勉強できる事に感謝し、様々な体験の場と設備の整った学校で大いに学んで大いに遊び、
楽しい中学校生活を送って欲しいと思っている。
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- 今後も寄せられたドラマを、各カテゴリーに随時アップしていきます。